2014年6月1日日曜日

2014 劇団通信6月号

挨拶するということについて考えてみたいと思います。
朝起きて「 おはよう ! 」と元気よくあいさつするのは当たり前のように思いますが、劇団の子ども達を見ているとあいさつすることが習慣づけられていないような気がしてなりません。朝目覚めて眠い目をこすりながらでも家族と顔を合わせた時に元気に大きな声で「おはよう!」と言っているのか、その子のお父さんやお母さんがお互いにさわやかに朝の挨拶を交わしているのか、子ども達は常に親の言動を見ながら育っていることを考えると「挨拶する」という習慣が子どもの成長において如何に大切であるかということを知らなければなりません。

夫婦でも新婚間もない時は楽しく挨拶し合っていても、居るのが当たり前のような日常になってくるといつの間にか疎かになり、特に朝の慌ただしさの中では挨拶どころではなくなってしまいます。又夫が仕事に出かける時笑顔で「いってらっしゃい!」と送り出し、帰って来た時は「お帰りなさい」と抱きつくような愛の表現をしているか、年数が経つにつれてその割合は極端に減少していきます。

犬ならいつでも主人が帰って来たとき尻尾を振って全身で喜びを表します。妻が犬のように歓迎してくれたら夫のやる気も倍増するかもしれませんが、共働きが当たり前のようになっている昨今では妻だけが尻尾を振る必要もありません。しかしお互いに愛のこもった言葉で挨拶を交わすことは家庭円満の秘訣であり、子ども達の成長にも計り知れない恩恵をもたらしてくれると思います。  

最近劇団で挨拶が出来ない子ども達が多いことを感じていますが、レッスンの始まりと終わりに形式的に挨拶をするだけでなく、人と出会った時に素直に挨拶が出来るような人間になってほしいと思います。

2014年5月7日水曜日

2014 劇団通信5月号

歳を重ねていくと時々自分が生きていることがとても不思議に思われて、一体人間は何のために生まれてきたのだろうと、迫りくる旅立ちに心を向けざるを得ない年令になるといろいろ考えさせられます。

この世に生を受ける以前は何にもなかったのか、死んでしまえば肉体は無くなるが魂は残る……? 肉体が無くなれば全て終わりではないか ! など、若い時からいろんな書物を読みあさってはいたものの、いざ自分のことに置き換えてみると難しい理論など必要ではないというところに落ち着きます。  

人間誰しも生まれて、そして必ず死んでいきます。そんな当たり前のことを考えると毎日の生き方が如何に大切であるかが分かってきます。人にはそれぞれ向上心がありもっと良くなりたいと努力していきます。夢を描きます。
でも夢の到達点は生きている時間によって変化していきます。

私のような70歳を越していてもまだ夢を描いています。
しかしそれは20代や30代の夢とは大きく異なり、自分が生きている時に実現しなくても後世に引き継がれることを願っている夢です。もう、そこには私利私欲など関係なく、自分が立ち上げた劇団がもっと広く社会からも望まれ必要とされる劇団にならなければという願いです。  

毎日の生き方が如何に大切であるかという前文に戻ります。
生きているということは自分にとって楽しいものでなければなりません。
しかし生きている限りあらゆる人間関係や対立に悩まされ楽しいものとはほど遠い生き方をしている人が何と多いことでしょう。
悩んだりくよくよして問題が改善されればいいのですが逆です。そこからは何も生まれません。毎日が苦しみで憂鬱であり決して楽しくはありません。そのままで一生を終えるなんて最悪で人生を浪費している勿体ない生き方です。

しかし自分の心や見方を変えるだけでたちまち楽しく明るいものにすることができます。
本当です ! そうすれば万事が好転する方向へ人生が軌道修正されていきます。  
少なくとも私は自分が楽しいと思う生き方を貫こうと思っています。
が、回りには大変な迷惑をかけていますよね。

2014年4月14日月曜日

2014 劇団通信4月号

三人の若い女性を主役にした「ダンスの朝」を九年振りに上演しました。一流のダンサーになることを夢見て競い合っている三人ですが、一人は子どもを孕んだためにダンスを中断し夢が遠のいていくと嘆きます。他の二人の仲間はダンスのことよりも生まれてくる子どものことを第一に考えるべきだと説得します。どうせ高いところを目指したって無理だからダンスは趣味程度に楽しくやればいいじゃないかと諭します。

ダンスに限らずスポーツやの仕事のことにしても妊娠した途端女性は大きな節目に立たされます。育児のことを考えると現役をそのまま続けるのは無理だと判断しがちですが、それでもオリンピックに出てメダルを取ったママさんもいるくらいですから、あくまでも本人次第ということになるのでしょうか。

「ダンスの朝」の子どもが出来た女性は一流を目指すことよりも子どもに夢を託す気持ちへと次第に変化していきます。それが母性愛だと劇中で言っていますが、我が劇団のお母さん達の中にも自分の夢を子どもに託して劇団に送り込んでくる人もいるようです。そして子どもが楽しく生き生きと取り組んでいるのを見て自分もやってみたいと若い頃の溌剌とした気持ちが蘇ってくるのでしょう。「まだ私にだってやれるわ!」と新たな意欲が出てきて子どもと同じような道にチャレンジして舞台に立っている人もいます。

そのように子育てが一段落ついたところで新たな楽しい人生が待っていることを考え、自分が本当に好きなことを今出来るところから少しずつやってみては如何でしょうか。

2014年3月14日金曜日

2014 劇団通信3月号

責任をとるということは当事者の人間性が反映されるもので、どんなに些細なことであろうと自分の言動にしっかりと責任を持つことは人間として当然のことなのです。しかし言い逃れしたり他人に転嫁したりする人が実に多い今の世の中、様々な事件や失態がメディアで報道される度に又か又かと嘆かずにはいられません。

江戸時代の武士の世界では責任をとるということは腹を切ることにも繋がっていました。命を張って自分の言ったことを守る姿勢は現代社会ではほとんど見かけなくなってしまったようですが、腹を切ってまで責任を全うする必要はないにしても、そのようなしっかりとした精神で物事の判断を下し責任を持つ人間が少なくなっているのは事実です。昨今の企業のトップの形だけのお詫び会見や政治家のように言葉を巧みに弄して言い逃れする態度には保身が見え隠れして本気で責任を取ろうという気構えが見えません。本当に国家や企業のことを思って自分の身はどうなってもいいという強い意志で貫いていく真のリーダーはいないのでしょうか。

最近は犯罪者でさえ人権で擁護され、肉体的な痛みを伴う刑罰がないためなのか犯罪が後を絶たず、昔のような拷問でもあればその痛さを怖れて減るのではないかと思ったりもします。役職を降りれば許される傾向の「責任をとる」というのも同様で、切腹までしないまでも責任の取り方をもっと厳しく見つめていけば安易にテレビカメラの前で一斉に頭を下げるみっともない謝罪会見も減るのではないでしょうか。

2014年2月1日土曜日

2014劇団通信 1月号

「緑の村の物語」を五年ぶりに主演しました。
過去三回やってきたものの五年の隔たりと自らの年齢を考えて、
本番に近づくほどプレッシャーがのしかかってきました。
果たして台詞がスムーズに出てくるだろうか、
一曲しかないソロの歌でも歌詞がきちんと出てくるのか、
若い時には考えもしなかった内面の葛藤が、年を重ねるに従って強くなってきました。
セリフというのは、一旦身体の中に入ってしまうと自然と口から出てくるものなのです。そのために何回も何回も稽古を繰り返すのですが、一旦身体に入ったものを信じてやればいいものを、途中で出てこなくなったらどうしようという、取り越し苦労的なものが時たま出てくるのです。

絶えず舞台に立っていればそんなことはありませんが、たまにやるから余分なプレッシャーとなって襲ってくるのです。といっても昨年は何回か舞台に立つことがあり、プレッシャーの度合いも少し薄まってきました。四月の一人芝居では、三日間で九ステージをやったことが自信にも繋がりました。役者は常にやっていなければ存在価値はなく、続けていく中でしか成長しないものだと思っています。私のように一度役者は辞めたと宣言?した者が、安易に舞台に立ってはいけないのです。やるなら絶えずやっていく。多くの役者が、本業よりもアルバイトに多くの時間を割いているのと同様、自らの存在理由を何処に置くかいつも考えさせられます。

しかし我が劇団は役者もやれば裏方や制作や事務作業もやるマルチ人間的な集団でもあるので、余計なことを考えず精一杯やればいいと、自身に言い聞かせています。


2013年12月7日土曜日

2013劇団通信 12月号

嘘をつくことについて考えてみました。最近のニュースでも取り上げられているみずほ銀行やJR北海道のおそまつな対応にうんざりさせられていますが、最初は大したことではないと軽く嘘をついたつもりでも、その一つの嘘がばれないようにさらに嘘を上乗せしてごまかし、逃げ場がないように追い立てられると記者会見で一斉に頭を下げて謝る…テレビで日常茶飯事のように見せつけられる光景です。

私たちも日常の生活の中で多少の嘘をつくことはあります。しかし他人に責任を転嫁するような嘘や、人を誹謗中傷したりする嘘は決してついてはいけません。人は窮地に追い込まれると どうしても嘘をついて逃げたくなることはあるかもしれませんが、この世に生きている人間で完全無欠なんて人はいません。誰でもミスをおかしたり失敗したりすることはあるものです。それが又人間なのです。ミスが発覚しないように隠蔽するよりも、正直にミスを認めて謝ることの方がどんなに素晴らしいことか、一時的にごまかして言い逃れしても、何かの折に発覚すればたちまち信頼を失うことになってしまうのです。

 嘘も方便という言葉がありますが、嘘が有効に使われて窮地を救ったとか、癌の宣告を知らせないための嘘や、人間関係をスムーズに保つための嘘など方便として使われることはたくさんあります。しかし基本的に嘘は嘘であり、嘘をつかない生き方を善しとしなければ何を信じていいのか分からなくなってしまいます。嘘をつくと舌を抜かれると子どもの頃教わりましたが、私の舌はまだ健在です。

2013年11月4日月曜日

2013 劇団通信11月号

先日劇団員同士の結婚式に呼ばれたので「結婚」ということについて改めて考えてみました。
愛し合う若者の姿は清々しく又、溌剌と輝いて見えますが、結婚相手は好きだからという思いで一気に決めてしまうケースが多いようです。しかし少し年齢を重ねて分別がついてくるようになると、特に女性の場合は「好き」とか「素敵」といった感情よりも、相手の収入や職業、学歴、地位といった外側の条件で決める場合が多くあるようです。どちらがいいのか人それぞれで一概には言えませんが、いずれにしても結婚したら二人の人生が大きく変わることは間違いありません。
 
最初はお互いに新鮮で幸せだと思っていても年月を経ると逆の状況に陥って悩み、どうしてこんな人と結婚したのかと後悔している人の何と多いことでしょう。又、経済的には何一つ不自由することなく暮らしていても心が満たされないで悶々としている人もたくさんいます。
しかし大概の人はそこで辛抱し、結婚当初の「あばた」が笑窪には絶対に戻らないことは分かっていても気持ちを切り変えてこの「難関」を乗り越えていきます。しかしそんな辛い時期もいつまでも続く訳ではありません。子どもが大きくなれば家族のあり方も変化してくるし、夫も妻も人生の荒波によって鍛えられたお陰で互いに理解するようになっていきます。何事も成就するには忍耐と努力が欠かせないように、乗り越えたその先には思いもよらない至福の時が待っていることを信じるべきです。
夫婦生活も人生行路と同じでなかなか思うようにはいかないものです、ね。